エッセイ 短歌雑感
短歌雑感
浅野 賢治
五十歳頃から、短歌を始めた。最初は川柳から始めたのだが、作品の面白さの点で私には「短歌」が向いていたようだ。最初は俵万智のベストセラー「サラダ記念日」を読んだ。
歌集のタイトルとなっている歌。「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。有名な一首だが、サラダは実は“唐揚げ”だとのこと。学校で教わった短歌は、明治の若山牧水や石川啄木で、現代人の私には古臭いものだったが、当時二十五歳の女性の口語短歌はこれまでの短歌とは全く異なる清新でみずみずしかった。以下、私が注目した俵万智の歌。(一)「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの (二)「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君 (三)この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」 (四) 「愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う」
短歌は基本五七五七七の三十一音で詠む。短い音数だから学校で教えられた歌を覚えているかというとそれはない。文語体の歌は初心者には馴染まない。世代にもよるだろうが、日常の話ことばで詠まれていることと、現代人の感性に響いたからこそ、二百八十万部も売れたのだと思う。俵万智は高校の国語教師だった。その感性を基に実体験やそれを脚色して短歌作品に仕上げるという作業を行っている。つまり、すべての作品が事実というわけではなく、嘘も混ぜ込んであるということだ。わたしが短歌を始めたひとつの理由は、実体験プラス虚構もあり、というところに魅力を感じたからだ。
ふたつ目の理由は、「座の文芸」ということ。短歌のサークルは「結社」と呼ばれ指導者として中心的な主宰がいて会員は主宰の指導を受ける形式が多い。私は長い間、趣味を持たずに仕事ばかりの生活に追われていた。
ある日不摂生な生活が原因で「急性膵炎」になり、約二か月間入院した。入院中に考えたことは、これからの人生では仕事をしながらも長く続けられる教養的な趣味を持つこと。くわえて仕事以外の人的交流の場を持ちたいとも思った。退院して程なく偶然にも、短歌を趣味とする高校の先輩に出会ったことからその短歌会に入会した。毎月一回の短歌会は二十年後の今も続けている。
短歌作品に話を戻そう。俵万智の歌集を何冊か読んでから、他の歌人にも興味を持ち少しずつその数を増やしていった。興味を持ったのは「寺山修司」、作品例としては(五)「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」(六)かくれんぼ鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭 (七)新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥 いづれも口語体だがそのイメージと虚構性の強さが好きだ。そしていまは、大御所の「斎藤茂吉」や「北原白秋」へと遡っている。
エッセイ VOL.1
エッセイ VOL.1 令和7年11月
ギター
わたしはギターを五本持っている。三本がベースギター、一本がエレキギター、残るもう一本がフォークギターである。最初にギターを手にしたのは小学六年の時で、音楽の成績が良くないとのことで、父がギターでも与えれば音楽の勉強に興味を持つだろうくらいの考えだったようだ。特に指導者に付わけでもなく、独習書を一冊買ってくれただけだから音楽の成績が上がるわけはなく、ギターは放置されていつの間にか無くなった。
再びギターを手にしたのは、大学生になった時である。その伏線として、中学3年頃から洋楽ロックに嵌り、高校時代は勉強そっち除けでレコードやラジオのヒットパレードを聞きまくった。大学生になり、アルバイトをするようになり、確か四万円ほどで十回分割払いで、エレキギターを購入した。分割ローンが出始めた頃で、「本当に払えるの?」と店員から念を押されたのを記憶している。
エレキギターを手に入れたからには、バンドに入ろうと考えた。しかし、この時も高校時代から音楽理論を学んだ連中には付いて行けず、結局バンドをクビになってしまった。残念ながら周りにはギターを教えてくれる友人をおらず、いつの間にかギターは質屋行きとなってしまった。
社会人となり、会社の仕事や子育てに忙しい日々が続く中でギターやあんなに好きだった洋楽ロックのことなどすっかり忘れてしまっていた。そんな生活も、三人の子供たちも独立して私も六十歳の定年退職を迎える時が来た。退職後は様々な仕事をパートでこなすうちに、 大学時代にはできなかったバンドでギターを弾きたいという思いがどんどん強くなった。やるからにはしっかり基礎から学びたいと考え、音楽教室に通うことに決め月3回個人レッスンを受けた。教室では段階的に演奏技術を教わり、楽譜を読む勉強もした。気がつくと、楽譜も読めるようになり、演奏技術も完全とは言えないもののいろいろなジャンルをそこそこ弾けるようになった。通算十二年通った教室も二年前に終えた。現在は同世代の仲間とバンドを組んで、時々ちょっとしたステージにも立っている。だいぶ年数は経たがやっと大学時代の口惜しさへのリベンジを果たすことができた。これからも演奏を楽しんでもらい、自分も楽しんで行きたいと思っている。
斎藤茂吉 略年譜
斎藤茂吉 略年譜 (年齢は数え年による)
・明治15年(1882)5月14日 戸籍上は7月27日 1歳
山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶)に父守谷熊次郎・母いくの三男として生まれる。 本名茂吉
・明治20年(1887) 6歳
弟直吉が生まれる。後に上山の旅館山城屋の養子となり四郎兵衛と名乗る。
・明治24年(1891) 10歳
宝泉寺の住職、「佐原応」和尚に習字などの手ほどきを受ける。
・明治29年(1896) 1応5歳
上山尋常高等小学校高等科卒業。金瓶出身で東京の開業医に斎藤紀一の世話を受け ることになる。父と出郷。9月、東京府開成中学校(後の私立開成中学校)に編入 学。姓は斎藤だったが入籍はしていない。
・明治34年(1901) 20歳
東京府開成尋常中学校卒業。第一高等学校を受験したが不合格。斎藤家に長男西洋 出生。
・明治35年(1902) 21歳
第一高等学校入学。
・明治36年(1903) 22歳
斎藤紀一留学から帰朝して神田に帝国脳病院、続いて青山に青山脳病院を開設して 精神科医として知られるようになる。
・明治37年(1904) 23歳
日露戦争勃発。長兄広吉、次兄富太郎応召。この年『子規遺稿 竹の里歌』を借り て興味を深める。
・明治38年(1905年) 24歳
開成中学の旧友を渡辺幸造を通じて短歌に接近。斎藤家のてる子(輝子)の婿養子と して正式に入籍。東京帝国大学医科大学へ進学。二人の兄は戦争から帰還。
・明治39年(1906) 25歳
・明治40年(1907) 26歳
古泉千樫・堀内卓に会う。青山脳病院に転居。この頃観潮楼歌会が始まる。
・明治41年(1908) 27歳
「馬酔木」「アカネ」「アララギ」の間に紛争発生、茂吉は左千夫に従って「 アララギ」に参加。医科大学鉄門クラブ親睦旅行で塩原温泉に遊ぶ。
・明治42年(1909) 28歳
左千夫に連れられ初めて観潮楼歌会に出席する。夏、発熱。暮れに腸チフスを病む。斎藤家に次男米国出生。
・明治43年(1910) 29歳
医科大学卒業
・明治44年(1911) 30歳
母いくの病気見舞いに帰郷。医科大学副手を命ぜられ病院に勤務。東京府巣鴨病院 医員としても勤務。この年中村憲吉や千樫と誌面の刷新を図る。左千夫と一種の齟齬を来す。
・明治45年/大正元年(1912) 31歳
旺盛な創作・歌論。医科大学助手として病院勤務。
・大正2年(1913)32歳
斎藤輝子学習院女子部卒業。五月ははいく危篤の知らせにより帰郷するが他界。七月伊藤左千夫急逝。『赤光』刊行。
・大正3年(1914) 33歳
青山の自宅に「アララギ」の発行所を置く。医科大学助手と巣鴨病院医員を依願退職。
養父帰一衆議院議員に山形県から立候補し当選。年末、長崎医科専門学校教授に任命され単身赴任。
・大正10年(1921) 40歳
文部省在外研究員を命ぜられドイツに留学。
・大正13年(1924) 43歳
年末、留学を終えて帰国上陸直前に青山脳病院の全焼の報に接する。
・大正14年(1925) 44歳
病院再建のため奔走する。
・大正15年「・昭和元年(1926) 45歳
赤彦逝去。府下松原村に再建の脳病院営業許可となる。翌年、養父に代わって病院長となる。
・昭和4年(1929) 48歳
『短歌写生の説』刊行。
・昭和8年(1933) 52歳
輝子の私行が新聞で報道されて打撃を受けて、以後別居する。
・昭和9年(1934) 53歳
子規の親類筋にあたるという永井ふさ子を知る。
・昭和15年(1940) 59歳
・昭和20年(1945) 64歳
・昭和26年(1951) 70歳
文化勲章受章
・昭和28年(1953) 2月25日 72歳 没
ひた走る我が道暗ししんしんと怺(こら)へかねたるわが道くらし (赤光より 22)
ひた走る我が道暗ししんしんと怺(こら)へかねたるわが道くらし
12悲報来 十首中第一首
(初版) わが道 堪(こら)へかねたる
[しんしんと] 意味としてはひっそりと静かなさまと取れるが下句への続き方からすると「怺へかねたる」および「わが道くらし」にしても単純には続かない。
茂吉がこの「しんしん」を使用したることの由来は明らかではないが。日常身辺の語の中から思いついたものであると思われる。ちなみに、この歌以外に「しんしん」を用いた歌は「赤光」に五首、「あらたま」に四首詠まれている。
「赤光」
・狂者らはPaederastie(※1)をなせりけり夜しんしんと更けがたきかも (折に触れて)
(※1)(少年を相手にしての)男色
・現身のわが血脈のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ (雪ふる日)
・しんしんと雪ふる最上の上の山に弟は無常を感じたるなり (ざんげの心)
・しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか (おひろ)
・死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる (死にたまふ母)
「あらたま」
・畑ゆけばしんしんと光降りしきり黒き蟋蟀の目のみえぬころ (黒き蟀)
・しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼はまたたきにけり (雑歌)
・ひるさむき光しんしんとまち″かくの細竹群(ほそたかむら)に染みいるを見む(小竹林)
・しんしんと夜は暗し蠅の飛びめぐる音のたえまのしづけさあはれ (深夜)
この歌は、信濃上諏訪の旅館で師左千夫の急死の「悲報」に接した作者が夜半に友の赤彦宅へ駆けつける時のことであるが、切迫した早い強い調子で、ただその状態だけを直接に表現しているところが特色で一つの新しさである。
(補説)
当時、左千夫と茂吉との関係は、一時の烈しい論争は収まっていたが、アララギは七月号を以て編輯発行者の名義を左千夫から千樫に移し会員組織として新しく出発していた。そういう状況において旅先で左千夫急死の報に接したのだから茂吉の驚愕も一入であったことは容易に推察される。この一連はその驚愕動揺の心そのものを詠じたものである。
「作歌四十年」に於いて「恩師の挽歌としてはどうかとおもう」と回想している。しみじみと師を悲しむというような感情のまだ生まれる余裕のない烈しく動揺した心情の表白なのである。
この「悲報来」は「おひろ」「死にたまふ母」と違って全く予定されなかったものであるが、「悲報来」を「赤光」の巻頭に置き、「赤光」の印象をさらに際立てることになった。(後の改選では年月順に並べられて、後に置かれた)。同時にこの一連における一種切迫した感覚的な表出には、すでに「赤光」から「あらたま」初期への変化を暗示するものがある。
死にたまふ母 二首(第二首) (赤光より 21)
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
死にたまふ母 其の三 十四首中第十二首
(初版) 足乳ねの
「玄鳥」 日本書紀(天智紀、持統紀)に「鷰」ツバクラメと訓んでいる。
万葉集巻十九の「燕来時爾成奴等」は、「ツバメ来る時に成りぬ」とあるから、どちらかと云えばツバメの方が用例がはやく万葉調と云えるが、ここでは一首の声調の上から採られたもののやうである。茂吉の愛用した言海ではツバメよりツバクラメを本来の語とし、燕・玄鳥・乙鳥の三字を並出している。
「ふたつ屋梁にゐて」 二羽のつばめ、屋根 単なる梁とせずに屋梁としたのは、家を支える「うつばり(家を支える横木)」の意。母の死に臨んでたまたま梁にとまる「のど赤き玄鳥二つ」のすがたの鮮やかさ目に入ったというその事実だけである。
(茂吉自評『作歌四十年』 何もいはずにありのままに直線的に云ひくだしたのも却って効果があったやうにおもふ)
死にたまふ母 二首 【第一首】(赤光より 20)
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
死にたまふ母 其の二 十四首中十一首
「我が母よ」 ワガという連体詞と見るべき。「我」代名詞「が」格助詞と二分するべきではない。
3番目の「我」は代名詞であるが上二つは「わが母」と捉えて良く特に「我」を体言としているとは言えない。
「死にたまひゆく、」 一般的には「死にゆきたまふ」となるが、「死ぬ」に「たまふ」という丁寧な尊敬語が結びついた。素朴と自由と敬虔との混合した不思議で力強い効果をもたらしている。
(茂吉自評「作歌四十年」) なかなか出来ないことであり、やはり非常の場合におのづから出来た表現に思える」
「生まし」 「生む」の未然形に四段活用の敬語「す」の付いた「生ます」の連用形
「足らひし」 「足る」の反復、継続の「ふ」に過去の助動詞「き」に続いたもの。
「死にたまふ母」の構成
「其の一」十一首 東京を離れる前後から翌日上山駅に下車するまで
「其の二」十四首 母の臨終まで
「其の三」十四首 火葬をおえるまで
「其の四」二十首 高湯温泉の宿泊
「死にたまふ母」 編輯の経緯
「赤光」刊行前に編輯がまず成され、大正二年五月の時点で五十六首が完成。その後にアララギ(大正二年九月号発表)分に
▶ 「ふるさとのわぎへの里にかへり来て白藤の花ひでて食ひけり」
九月号の前のアララギ七月号に掲載
▶ほのかなる花の散りにし山のべを霞ながれて行きにけるかも
アララギ(大正二年七月号に掲載)
▶「遠天を流らふ雪にたまきはる命は無しと云へばかなしき」
初出不明
の三首を加へ、全五十九首を大正二年十月十五日 東雲堂書店から出版された。
「おひろ」「死にたまふ母」の二連作は「赤光」のために用意されたようなもので、また結果としても「赤光の魅力のもっとも大きい要素をなすことになった。